映画『スーパーガール』評価・ネタバレ感想 オリジナリティを感じられないヒーロー映画

スーパーガール:ウーマン・オブ・トゥモロー 完全版(上)

 

ジェームズ・ガンとピーター・サフランにより新たにDCユニバース(通称:DCU)が幕を開け、先日、映画2作目に当たる『スーパーガール』が公開された。私は公開から3日目の6/28(日)に鑑賞したのだが、率直な感想としてはあまり楽しむことはできなかった。映画1作目の『スーパーマン』に大感動したため、金土での世間の評判を信じられずにいたものの、なるほどこれは単純に面白くない。確か調子が悪い時のMCUもこんな感じだったよな…と感じてしまった。

 

話の大筋は分かる。というか、非常に分かりやすい。複雑性がなく単純明快なストーリー展開であるのは良かった点と言えるだろう。故郷を失い、自分の居場所を探し続けるカーラ・ゾー=エルが、邪悪な存在によって幸せを奪われた人達の味方=スーパーガールとして成長を遂げる物語。つまり「ヒーローであること」こそが、彼女の居場所であり、アイデンティティであるという結末を映画は示してくれる。だからこそクレムを自らの手で殺そうとするルーシーに対して復讐の虚しさを説き、その後自ら手を下す。宇宙に生きるたくさんの「普通の人々」が普通に生きられるように、強大な力を持ち悪を成敗できる自分がヒーローとして立ち上がろうとするのだ。そしてその決意こそが、彼女の「居場所」になるという綺麗な帰結になっている。

 

私はこのヒーロー論に深く共感するし、ノブレス・オブリージュにも似た彼女の決意は素晴らしいものだとも思う。何より興味を惹かれたのは、これが『スーパーマン』の主人公、クラーク・ケントのキャラクター像と正反対に位置している点。強大な力を持つ自分を打ちのめそうとするレックス・ルーサーに対し、彼は「自分も一人の人間だ」と説く。迷い戸惑い傷つき間違えながら、正しい方向へと歩んでいく。地球を破壊するほどの力を持っていても、絶対的な存在などではなく、等身大の人間なのだ、と。つまり『スーパーマン』はヒーローの”弱さ”を浮き彫りにする物語になっていたのだ。それに対して『スーパーガール』はカーラ自身が強さの使いどころを自覚する物語になっており、従姉妹同士でありながら、2人の考え方は真逆であることがそれぞれの映画で示される。もちろん、どちらが正しいというものでもないのだが、これから更にユニバースが展開していくことを考えると、それぞれの1作目で真逆のヒーロー像を提示してくるというのは、大々的な仕掛けのための前振りのようにも思え、後続の作品への期待も自然と高まっていった。

 

一方で、やはり『スーパーガール』という映画単体の出来は、すこぶる悪かったように思う。「力を使って普通の人々を悪から守る」という帰結へと向かう映画としての道筋が杜撰で、脚本にはまったく面白味を感じられなかった。原作のアメコミについての知識はほとんどないため、映画鑑賞後に特典の冊子を読んで、少なくともスタートはかなり原作に近い内容だったのだなと驚く。というのも、私は映画を観て「ルーシー必要なくないか?」とずっと考えてしまったからである。何らかの都合で急造されたキャラクターのように見えたため、むしろ原作に登場していたことが衝撃だった。父を殺したクレムへの復讐心だけを胸に行動する向こう見ずな性格。力を持たないのに敵に挑み、結局ボコボコにされ、スーパーガールに頼るしかないという、弱者の象徴のようなキャラクターだった。

 

そんなルーシーにかけられた”復讐”という”呪い”を、ヒーローとして目覚めたスーパーガールが解くという物語であるはずなのだが、この道筋が本当に酷い。まず、カーラの口から「復讐は虚しいだけ」というような言葉が出ること自体がよく分からなかった。彼女は復讐の経験などないし、何なら自分の家族を奪ったのは「災害」であり、復讐相手を持てなかった人物なのである。人の命を奪うような罪悪感に駆られた経験もおそらくなく、何か一つの指針のために生きているような人物でないことも各描写から明らか。そんな彼女の言う「復讐は虚しいだけ」は、まったく説得力を持たない。そしてその空虚な言葉に感化されてしまうルーシーの葛藤も、結果的に安っぽく見えてしまう。あれだけ復讐に生きた彼女が、体験に基づかない「復讐は虚しいだけ」という言葉にしれっと感化されることが、正直信じられないのだ。そしてそれは、カーラとルーシーの関係性の変化や、2人の対立・協調をしっかりと描けていなかったことにも問題がある。

 

復讐云々だけでも、明確にクレムという相手を持つルーシーと、復讐心を向ける相手のいないカーラで、もっとはっきりと対比させられたはずである。ルーシーに対して「復讐できる相手がいるだけマシ」とカーラの孤独を更に強調させてもよかったし、逆に復讐という苦しみだとしても、生きる目標が存在していることに嫉妬や憧れを覚えてもよかったのではないだろうか。この2人の連帯がほとんど描かれないまま、ルーシーの向こう見ずな性格がトラブルを引き起こす展開が続くのが非常にストレスだった。彼女が完全にカーラの足を引っ張っていたし、そもそもカーラにはクリプトを救うというクレムを倒す目的があるため、ルーシーというキャラクターの必要性が作劇上でもあまり感じられなかったのである。

 

必要のなさで言うと、ジェイソン・モモア演じるロボに関しても扱いがよく分からなかった。態度と体がすこぶるデカい上に派手なバイクを乗り回す白黒の大男。確かにビジュアルは印象的で、豪快なキャラクター性も魅力的だった。ただ、この映画に彼が必要だったのかどうかというと、私は、別にいなくても話自体は回ったなと思ってしまう。確か2度ほど、彼の大暴れがカーラ達のピンチを救う展開があったと思うのだが、それも場をかき乱す以上の役割はなく、決定的な必然性ではなかった。凄く通り魔的というか、「ロボの力が絶対に必要」になることはないままに、しれっと現れて乱戦を巻き起こす豪快なキャラクターという印象だけがついてしまった。PS2の漫画原作格ゲーの、R1ボタンを押すとお助けキャラが登場してハメ技から抜け出せる…みたいな、そういう質感である。ロボの言葉がカーラやルーシーの心を動かすことはなかったし、逆も然り。キャラとしては嫌いじゃないのに、便利アイテムのように使われた彼が不憫でならなかった。今後に向けての顔見せ程度の意味合いだったのだろうか。

 

また、単純に印象的なアクションがなかったのも厳しい。スーパーマンは何度も映像化されており、スーパーガール自体もいくつか映像化されているため、それらとの差別化は非常に難しいのだろうが、だとしても「この映画のあのアクションは凄かった!」と言えるようなシーンが1つはほしかったところ。要するにスーパーガールというヒーローに特別な個性を感じられなかったのである。彼女がどんなスタイルで戦い、それをどう映すか。そういった演出面での工夫もあまり感じられず、既視感のある(実際に観たことがあるかどうかは置いといて、「こんな映像観たことない!」と思わせてくれるような)演出ばかりが続くアクションばかりが並んでいるのは非常に残念。あとスペースオペラ風の映像、特に様々な姿をしたエイリアンが次々に出てくる構図なんかは非常にスター・ウォーズ的で、『マンダロリアン アンド グローグー』直後での公開は余計にダメージだったなあとも。

 

総合的に言うと、前作『スーパーマン』との差別化は徹底的に意識されていたものの、単独作としての面白味はほとんど感じられなかった。カーラが次々とトラブルに巻き込まれるのは、生理や社会からの目線に日々苛まれる女性を描いているのだろうという意見も目にし、それ自体は確かに作り手も意図していたかもしれないなと思いつつ、だとしても物語が杜撰すぎるだろうと感じてしまった。そもそもカーラがトラブルに巻き込まれるいくつかの原因はルーシーで、そしてそのルーシーも女性なのである(13歳なので正確には女子かもしれないが)。私としてはフェミニズム云々というよりも、単純に「物語が最後に言いたいこと」の説得力をキャラクターに持たせられないまま、説教臭くなってしまったなあと。カーラの考え方には強く共感できるがゆえに、余計に残念だった。

 

ジェームズ・ガンは本作を脚本したアナ・ノゲイラに惚れ込み、既に彼女は次作『ワンダーウーマン』の脚本も担当することが決定している。もちろん『スーパーガール』を楽しめなかった要因が脚本だけとは決めつけられないのだが、それでも少なくとも『ワンダーウーマン』は覚悟しなければならないかもしれない。

なお、特典でも配布された本作の原作はこちら。