2004年の大ヒット映画『世界の中心で、愛をさけぶ』を初めて観た。きっかけは単に坂元裕二脚本の映画を観ていこうかなと思った時に手軽に観られるものだった、というだけである。坂元脚本なら何でもよかったのだけれど、それでもやはりこの大ヒット作は最初に抑えておいて損はないかなあと。原作小説があるのでオリジナル脚本ではないわけだが、それでもこれほど大規模な恋愛映画の脚本家として実力を発揮できること自体が、彼のトレンディドラマで培った手腕を物語っていると言えるのではないだろうか。
この映画を観てまず最初に思ったのは「知ってる!!」である。もちろん私は初見。では何に対しての「知ってる」かというと、この映画に近いものをたくさん「知ってる」という意味の「知ってる!!」である。泣ける映画と銘打たれた邦画のエッセンスが余すことなく詰め込まれていて、正直ちょっとドン引きした。私が聴いているラジオ『こんプロ』でも「セカチューが現在の泣ける邦画のイメージを定着させた犯人なのではないか」と推察されていたが、私の予想以上に犯人だった。
青春時代の恋愛を追想する構成、相手が難病で亡くなっているという設定、現代の恋人が主人公の過去の恋愛を知ってしまう偶然、第三者によってふわふわしたまま終わってしまった2人の関係性、雨の中で叫び雨の中を走る演出。現代の泣ける邦画はこういったエッセンスをチェックリストにしてノルマ的に消化しつつ物語を作っていっているのではないだろうかと疑ってしまうほど、「泣ける邦画」の原作だった。手を変え品を変え、こういった作品が年に2,3作ほど大規模に公開され、結構なヒットを飛ばしているというのが邦画界の現状なのではないだろうか。ちゃんと調べてはいないけれど、そんな気がする。むしろこの『セカチュー』はまだ手垢に塗れていない分、マテリアルな印象さえある。すごくフラットだなあというか、もっと独自性を出してくれていいんだよとまで思ってしまった。おそらく当時はこういった映画自体がもう「独自性」だったのだろうけれども。
ちなみに興行収入だけで言えば、『セカチュー』は85億円で2004年の邦画においてナンバーワンのヒットを飛ばしている。邦画2位が『いま、会いにゆきます』で48億円なのでかなりの差をつけた形。というか2位の『いまゆき』も妻に先立たれた夫…というストーリーの映画なので、この年の国民の「泣きたさ」はかなり凄かったのではないだろうか。ちなみに邦画3位はポケモン映画である。
85億を叩き出すような映画なら後続も増えるわけである。去年の『四月になれば彼女は』も、今年年始の『366日』もだいぶ『セカチュー』だった。特に『四月になれば彼女は』はもう、ほぼ『セカチュー』である。長澤まさみも出ているし。長澤まさみが成長し、『セカチュー』の柴咲コウの立場になっているという、精神的続編みたいな意味合いすらうっすら出てきている。泣ける映画ウォッチャーとして、もっと「泣き邦画」をたくさん摂取していけば、こういうリンクにもどんどん面白味を見出せていけるのかもしれない。
ただ、映画について少し調べて、原作からかなり大胆な脚色が成されているということを知りかなり驚いた。まず原作は未来の朔が過去を回想する…という構成ですらないらしい。マ、マジかよ…。むしろ今作の要と言っていい部分なのに、それが映画オリジナルだったとは。坂元脚本、あまりに離れ業すぎる。
外枠の話ばかりをしてしまったので映画の中身について。
一言で言えば、面白くなくはなかった。1986年の過去と2004年の現代が交錯していく複雑な構成なのに、全く分かりづらくない。これが映画オリジナルなのかよ…と改めて凄みを感じる。時系列をぴょんぴょんと反復横跳びさせることで、現代で提示された謎が少しずつ過去編で明らかになるという面白味が着実に活きていた。なぜ律子は足を引き摺っているのか、なぜ写真館に2人の写真があるのか、なぜ2人はオーストラリアに行けなかったのか、なぜ亜紀は朔太郎に何も言わず息を引き取ったのか。簡素ではあるがミステリー要素がどんどん物語を引っ張っていって、おそらくこういった泣き映画への耐性が低い2004年に本作を観ていたら、その鮮やかさに驚嘆していたと思う。現代ではさすがに驚くようなことはなかったけれども。
作中でも死生観がちゃんと根付いていて、死という逃れられない悲劇にきちんと向き合っている真面目さを垣間見ることができた。校長の葬式で亜紀だけが全く動じないというのも彼女自身の覚悟が窺えるし、校長の墓から遺骨を盗むシーンやブランコに乗っての会話なども、何も知らない朔太郎の呑気さが逆に響くうまい構成になっていると思う。「人が死んだら愛は残るのか」という言葉も最初は軽く聞こえるが、亜紀が自分の病気を知っていてのやり取りだと思うと、途端に重みが増してくるから不思議である。
写真館の館長が朔太郎に言う「天国ってのは生き残った人間が発明したもの」「残された者にできるのは後片付けだけ」などもすごくいい言葉だなと思う。この映画以降に後続的作品が量産されて、「余命」というものが軽やかに消費されていく現代の邦画界のことに思いを馳せるとどうしても深くまでは刺さらないのだが、それでもこの映画にいて朔太郎の心を動かすだけの威力はある。ただ泣けるというだけに留まらず、オーストラリアの死生観などに基づいたラストも文学性があって悪くない。まあ、足の悪い恋人と一緒に旅行してるのにヒッチハイクはないだろ…というツッコミはしてしまったが。
一つどうしても言いたいのは、病室から出られない亜紀に代わってカセットテープを届けていた小学生時代の律子が、最後のテープを届ける際に事故に遭い、亜紀の遺言を朔太郎に届けることができなかった…というオチ。亜紀は冒頭で偶然にもそのテープを見つけ聴いてみたところ、それが何と夫になる朔太郎へのメッセージだと知ってどこかへ消えてしまうわけだが、その辺りの意味不明さはかなり説明しづらい。数奇な運命を辿ることとなり、自分のせいで亜紀の言葉が彼に届かなかったと後悔するのなら、普通に見つけた時に渡せばいいのでは…と思ってしまうのだ。もちろんそうできない複雑な感情が存在しているというのも理解はできるが、何せ律子のシーンはほとんどないのだから、こちら側がかなり譲歩して、映画の中で提示された「失踪」という答えに行き着くしかない。というか普通に律子は何がしたかったんだよ…とも思う。最終的に「あの少女が律子だったんだ…!」という驚きと彼女が抱える後悔が泣かせをブーストしているのは認めるが、細かく拾っていくとどうにも理解できない行動だなあと。
演出面では、学校の体育館のシーンや亜紀が倒れた空港のシーン(からの有名な「助けてください!」)、雨が彼等を直接打つのではなくて、窓ガラスを伝う雨の影を利用した演出はかなりいいなあと。雨の中で叫ぶというのはある種の邦画的テンプレートだと思っているが、実は『セカチュー』ではちょっと捻ってたんですねという発見があった。もちろんその演出に感動したとかではないのだけれども、少しオシャレじゃんみたいな気持ちになったわけである。あとやっぱり平井堅の主題歌がいい。『瞳をとじて』は本当に名曲。
総じて、さすがに現代に観て感動とまではいかなかったが、この映画が邦画の流れをガラッと変えてしまったという意味ではすごく勉強になったなあと。もしこの作品がヒットしていなければ、日本映画界がこんなにも余命ものを作ることはなかったかもしれない。今は小説でも余命を謳ったものが多いが、やけに瑞々しいタッチの表紙で「泣ける」と帯にガッツリ書いてある小説達も、この『セカチュー』がなければ存在しなかったのかもしれない。『セカチュー』はもはや古典芸能の域。
とはいえ、長澤まさみのお色気シーンや高橋一生(本当にこの役者は様々な映画にこっそり出てるな…)の下衆さなど、平成を感じさせる描写も多く、ちょっとその点は辟易してしまった。そう思うと『366日』がいかに健全だったか。泣ける映画のエッセンス自体はしっかり受け継がれていても、そういった古臭い価値観はちゃんとオミットされているのだなあと。もし今のティーンに「泣ける映画教えてください」と訊かれるようなことがあったら、迷わず『366日』のほうをおススメすると思う。『セカチュー』は令和だとちょっともうキツい。
原作からかなり大胆にアレンジされているようなので、その辺りをいずれ確かめたいなあと思っているが、自分はそこまで泣いたわけではなかったし、正直食指はピクリともしていない。とりあえずは坂元裕二映画をどんどん追っていくことになるだろう。公開中の『ファーストキス』も急いで観なければ…。