映画『ロングウォーク』評価・ネタバレ感想 歩き続けるだけのデスゲーム

スティーヴン・キング原作の映画『ロングウォーク』のあらすじは非常にシンプルである。歩き続けて最後の1人になれば大金が手に入る、途中で止まれば即射殺される。このルールだけを把握し、ただ車道を歩き続けるだけでいいのだ。ゴールはなく、最後の1人になるまでひたすら足を動かさなければならない。水は言えばもらえるが、お手洗いに行くことはできない。怪我をしても手当てはされないし、靴に入った石を取り除く程度のことでさえ一歩間違えれば死に至る。シンプルだからこそ恐ろしい。そしてシンプルだからこそ、この悲惨なゲームに巻き込まれた青年達の物語が強く心を打つ。

 

10年ほど前だっただろうか。私が学生だった頃、まだ漫画アプリや電子書籍が今ほど一般的ではなかった頃、デスゲームを題材にした作品が大流行した。もちろんジャンルとしては既に確立されていたのだろうし、漫画に限らず映画や小説でもデスゲームものは大量に存在していたのかもしれない。だが、小説の『リアル鬼ごっこ』を皮切りに、私達の世代は「無作為に選ばれた主人公達が突然負ければ命を奪われるゲームに参加させられる」物語に夢中になっていた。同じような小説も同時期にたくさん生まれていたし、漫画アプリのランキング上位もほとんどデスゲームもので埋まっていたような気がする。同級生達が読む漫画も王道のジャンプ漫画から、そういったグロテスクな作品へとシフトしていった。この時期、まだエンタメをそこまで知らなかった私でも、デスゲームブームと呼べるような潮流が起こっていたのを感じていた。しかし実際に手を付けてみると、それらは如何にショッキングな死を描けるか、如何に人としての尊厳を破壊できるかに注力したものが多かった。当時の私達にとって、ドーパミンを摂取する方法の1つが登場人物達の惨たらしい死に様だったのである。

 

その後、デスゲーム作品はあらゆる形へと進化してくことになる。当時はデスゲームと何を掛け合わせるかによって無数の作品が生まれていたし、今もその流れは存在しているのだろう。そこまで映画の歴史に詳しくはないが、ホラー映画・サスペンス映画においても同じ時代があったはずだ。ただ、それらはどうしてもゴア描写や死のバリエーションにこだわってしまうことが多く、その代償としてなのかドラマ性はあまり重視されていなかったように思う。いかにインパクトある死を描けるか、映画でも漫画でも、これがデスゲームものの醍醐味となって久しいのではないだろうか。

 

なぜこんなに雑なデスゲーム語りを長々としているのかというと、私がこの『ロングウォーク』を観て最初に思ったことが「シンプルすぎる」ということだったからである。「歩みを止めれば殺される」、本当にただそれだけであり、複雑なルールは一切ない。猿でも理解できるほど単純なゲームなのだ。そして、デスゲームにありがちな特殊能力を持った者も、デスゲーム破壊の鍵を握る人物も、意外な攻略法も、実は周回していた人物も、自分が生き残るために足を引っ張り合う無様なドラマも、存在してはいない。この『ロングウォーク』はただただ哀しいだけなのだ。逃げることは不可能で、特別な力でゲームを終わらせることもできない。戦車に乗って監視している軍人に、丸腰の若者が勝利することは叶わないのである。

 

では特別なギミックもないのに、どうしてこの映画に惹きつけられてしまったのか。それは偏に、台詞や行動から滲み出るドラマ性ゆえなのだろう。ロングウォークを指揮する少佐(マーク・ハミル)に反体制派の父親を殺された過去を持ち、優勝して少佐への復讐を誓う47番のレイ。主人公である彼は決して特別な人間ではないが、少佐への復讐と母親の元へ帰るという強い意志だけを胸に歩き続ける。だが、自分の目の前で次々と人が死んでいく光景に心はズタボロになっていく。道中では、現れた母親の元へと駆け寄り「僕が間違っていた!」と叫ぶ自殺行為にまで及ぶ始末。そんなレイを励まし続けたのが23番のピーターである。私はこのピーターこそが『ロングウォーク』のMVPだと思っているし、彼がいなければこの大会はもっと陰惨な終わり方をしていたと考えている。それほど、彼の存在はレイや他にとって希望だった。

 

かつては喧嘩っ早い性格でとても真人間とは言えなかったが、過去を悔い改め希望を見つめて生きていくことを決めたというピーター。回想シーンすら挿入されず、ただ言葉だけで自分の生い立ちを語っているし、何より極限状態なのだから、どれほど正確なものなのかは分からない。周りを勇気づけるためや自分を鼓舞するために、でたらめを言っている可能性だってある(原作未読なので実際どうなのかは知らないが、あくまで映画の見え方として)。だが、希望のために生きるという彼の言葉が真実であるということは、彼の行動からしっかりと読み取れる。自分が善人じゃないからこそ母を強く想うレイの優勝を願い、自分には友達が必要だからこそ参加者と積極的に友情を育んでいく。妬み嫉みにいつ移り変わってもおかしくない動機を持ちながら、彼はロングウォーク中、ひたすらに善人で在り続けたのだ。

 

私はピーターに一番泣かされたが、このドラマは死を描きながら生を描いている点が何より素晴らしいポイントだろう。死を如何に劇的に描くかではなく、避けられないものとして描き、参加者の生き様もとい歩き様を描写する。死と隣り合わせの状況で何を想い何を目指すのか、誰かが今にも命を落としそうという状況で自分は何をするのか、そして友達と並んで歩いているという日常と変わらない状況で何を話すのか。『ロングウォーク』は普遍性と異常性を織り交ぜ、とてつもない人間ドラマを劇中に詰め込んでいる。勝者は1人だけのはずなのに、参加者達は団結し、自分達の希望を語り合い、自分のせいで他人が脱落してしまったことに罪悪感を覚える。誰も助けに来ない地獄の中で描写される友情や希望が、こんなにも美しいものだったとは。

 

先月の頭には同じくスティーヴン・キング原作の『サンキュー、チャック』が公開された。詳しくは伏せるが、この映画はキングの光の部分を詰め込んだような作風で、こちらも人間讃歌と言える作品になっている。テイストは違うのに、どちらも人間が生きることを真正面から肯定してくれるような力強さに溢れているのだ。私はいくつか映画を観ているくらいだが、スティーヴン・キング原作の作品はやはりそういうものが多いかもしれない。『IT』2部作や『ドクター・スリープ』にも似たものを感じた。スティーヴン・キングは恐怖を創造する力も素晴らしいが、その恐怖に立ち向かう人々の普遍性も見どころなのだ。

 

「止まったら死ぬデス・マーチ」としか言いようがない映画だが、そんな安直な物語ではない。死と隣り合わせの状況で際立つ彼等の圧倒的な生。地獄が前提となった世界で育まれる絆は感動を生み、一見地味なストーリーをどんどん骨太にしていく。こんなにシンプルな設定のデスゲームものはもうこの先観られないかもしれない。実際、キングが原作の『死のロングウォーク』を発表したのは1979年(別名義のリチャード・バックマンなる名義で出版されている)。つまりデスゲームが世の中に溢れる前の小説なのだ。そんな時期だからこそのシンプルさなのかもしれない。しかしこのシンプル故の面白さが凄まじかった。原作は映画とは違う結末を迎えるらしく、そもそも主人公のレイがロングウォークに参加する動機も異なっていると聞いた。その改変ゆえに原作ファンから批判もされているようだが、私は原作を読んでいないおかげか映画には大満足。『サンキュー、チャック』も本当に素晴らしかったが、こんなスパンでまたもキングの傑作映画を観られるとは。