映画『勝手にしやがれ』感想

勝手にしやがれ [Blu-ray]

 

映画『勝手にしやがれ』を観た。1960年公開、ジャン=リュック・ゴダール監督の代表作。何故このタイミングで観たかというと、黒沢清監督が大きく関係している。今月に黒沢清監督の新作が控えているのでその予習にと『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を観てインターネットで感想を読んでいたところ、「ゴダール的」という言葉が異様に多かった。映画を観ているくせに全く知識をつけようとしない怠惰な自分はゴダールが一体何なのかさえ分からなかったのだが、今はネットで検索すれば何でも分かる時代。ゴダールという監督がいるのだなという学びを得たのがつい昨日である。フランス映画もクラシック映画も通っていなかった自分にとっては新たな世界を見つけたような感覚があり、ましてそんな古い映画が配信サービスで観られるというのだから本当に良い時代になった。ひとまず黒沢清のどの辺りがゴダールなのかを確認するため、ある意味作業としてこの『勝手にしやがれ』を選ぶ。理由は「なんとなくタイトルに聞き覚えがあったから」である。よくよく調べれば沢田研二の曲のタイトルにもなっているし、黒沢清哀川翔主演でこのタイトルのシリーズを撮っていた。つまり私が知っている『勝手にしやがれ』はこの映画ではなかったのだけれど、この映画がそれらの源流となっていることは明らかである。それほどに影響を及ぼした作品なのだなという事前知識を得てからの鑑賞だったが、かなり退屈…。しかしその退屈さがウリなのだということもよく分かる映画だった。

 

正直黒沢清ゴダール的と言われる所以はこの映画ではあまり理解できなかったというか、重なる部分はなかったように感じてしまった。ただこちらのインタビューでは『勝手にしやがれ』に直接触れてはいないので、ゴダールのもう少し後期の作品にそういう部分があるのだろうなと予想している。

 

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黒沢清ゴダールを意識していることは証明されたので、この辺りはゴダール黒沢清の作品をそれぞれ観ていって確かめていくようにしたい。そんな時間を捻出できるかは不明だが…。

 

肝心の映画の内容だが、車泥棒の男性が警察官を銃殺して指名手配され、愛する女性の部屋に転がり込みただただ中身のない会話を続け、最後には女性に密告され警察に銃殺されてしまうという物語である。起伏に富んでいるというわけでもなく、むしろ90分ない映画とはいえあまりに退屈すぎると言えなくもない。Googleで検索するとサジェストに「勝手にしやがれ 何が面白い」と出てくる辺り、この映画に面白さを見出せなかった人々は多いようだ。実際私もかなり「うーん…」というか、好きな人には申し訳ないのだが何かを得るということはなかったし、心が動かされるほどのものも見つけられなかった。ただそれでも感心したのは、長回しで続く男女2人の会話シーンである。どうにかして寝たいミシェルとそれを軽くいなすパトリシア。彼等の会話のリアリティには驚愕した。延々と大した意味のない会話が繰り返され、時にスキンシップを取る。本当のカップルの日常を観ているかのような背徳感すらあるくらいに、恋人同士の会話が上手い。よくサスペンス映画などで恋人が殺された場合に、殺される前の2人の和気あいあいとしたシーンが挿入されることがある。イチャつき以外の何物でもないのだけれど、キャラクターの悲しみに深く感情移入させるために、2人の愛を示すシーンとして非常に重要になってくる。

 

だが、この『勝手にしやがれ』は違う。最後に主人公は死んでしまうが、それと直接は関係しない会話がいつまでも続くのである。1960年の映画とはいえ正気ではない。こんなものにOKを出した人物がいると思うと驚きである。そして実は、彼等の会話は映画的な意味も持たなければ、2人の間にとっても全く意味がない。すれ違うどころかただ言葉を並べていただけに過ぎない時間だったのだ。あんなに時間を取ってゆったりと演出しておきながら。あまりに退屈すぎて全然集中できていなかったのが本当に勿体なく感じてしまった。配信よりも映画館で観たほうがちゃんと衝撃を受けられたかもしれない。

 

その後いろいろインターネットで感想を読むことに。さすがに有名な映画ということもあり、公開当時に観ていた方の感想や若い方の「何がいいか全くわからん」的な意見まで、幅広く拾うことができた。

 

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この方の分析なんかはとてもすごい。短文ではあるが、映画の社会的な意義に気付くことのできる人は本当に尊敬する。映画の見方が変わるかもしれないので、同じように訳が分からなかったという人はぜひ。

 

それと、こちらのブログも面白い。

 

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ラストの台詞の解釈を原語の視点から読み解いている。字幕では削ぎ落されてしまった内容を丁寧に説明してくれているのが非常に助かる。ミシェルの最期の台詞「最低だ」は自分もしくは自分の人生に言ったものであるらしい。もちろんあのぶつ切りのラストだから解釈は人それぞれあっていいと思うのだけれど、解釈を観客に委ねるということ自体が当時は斬新だったのかもしれない。

 

そして何より取沙汰されるのが「ジャンプカット」の発明。映像をぶつ切りにして時間経過を示す今となってはごく当たり前の手法が、この『勝手にしやがれ』にて初めて世に登場したらしい。それはメッセージを持つものではなく、単に長い映像を短くするために切ったというのが理由らしいのだけれど、今ではYoutuberも当然に使っているこの手法が世に出てきた時というのは、そりゃあ革命だっただろうなと思う。令和の今にクラシック映画を観て斬新に感じろというのはさすがに無理があるが、後世の多くのクリエイターが影響を受けているのなら、その視点で観るともっと楽しめるかもしれない。ちょっと時間を作ってゴダールの作品を深堀してみようと思った。