先日の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』に続き、黒沢清作品を追っていった。今回は『地獄の警備員』。本当は『神田川淫乱戦争』や『スウィートホーム』も観たいのだけれど、自分が加入しているサブスクにはないので仕方なくこちらを。というか『スウィートホーム』は訴訟問題にまで発展していてサブスクどころかDVD化すらされていないとか。YouTubeでは違法アップロードされているようなのだが、できれば合法的に視聴したい…。今の時代、サブスクの登場によってあらゆる映画が簡単に観られるようになったが、このように権利問題などによって視聴難易度がかなり高くなってしまっている映画に出会うことはまだある。その時代に生まれてすらいなかった自分にとっては何とも物悲しい。永遠に観ることはできないのだろうか…。
話を戻して『地獄の警備員』についてネタバレ込みで話していきたい。何と言っても、『孤独のグルメ』でも大活躍の松重豊の初映画出演作というのだから驚きである。しかも役柄は元力士の殺人鬼。たしかに長身痩躯で威圧感を放ってはいるが、いくらなんでも力士は無理がある。痩せすぎだ。役名が富士丸というのも面白い。どう考えても四股名なのに富士丸の名前で警備員として働いている。いや本当に富士丸だったら申し訳ないけれども。見た目がどう考えても力士じゃないのに、名前が完全に力士なのでそのギャップで笑ってしまう。だが本編は笑うことなどできないほどに凄惨で陰惨。サイコスリラーでもありスプラッターでもあり、とにかく人が死にまくる恐ろしい映画なのである。ポルノ映画の領域を飛び出した黒沢清の、言わば初ホラー作品なわけだけれども、既にその実力は見え始めている。この殺人警備員・富士丸のキャラ造形だけで濃度の高い黒沢清を浴びているような気分になれるのだ。
舞台は新たに絵画の取引を始めた商社のビル。この辺りは非常にバブル的と多くの感想に書かれていたのだけれど、バブルにまだ生まれていない自分にとってはあまりピンとこなかった。でも調べてみるとバブル期に絵画を買ったという人の話は結構出てくるので、それだけ日本が豊か(と錯覚できるような)時代だったのだなあと思う。新たに創設された12課が全然社内に浸透しておらず、主人公の秋子が度々不審者と間違われるのも面白い。あと秋子って『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の主人公と同じ名前なのだが、黒沢清監督はこの名前に何か因縁や思い出でもあるのだろうか。今作の秋子は入社して間もない新人(だけれど元美術館の学芸員のため絵画の知識は豊富)。ビル内の勝手が分からない彼女の心情が、映画を観る我々観客と同期していく。
陰惨なシーンでなくとも人と人とのやり取りの間で嫌な空気感を醸し出せるのが黒沢清。冒頭のタクシー運転手との会話からしてもう嫌だ。こっちが急いでるのにのんびりといきましょうなんて言ってきて、会社についてあれこれ聞いてくるのだ。め、めんどくせえ…。あんまりタクシー乗らない人間なので特に嫌な思い出はないのだけれど、この運転手に当たったら気分最悪だなというのが一発で伝わってくる人間性がガツンと映画の始まりで出てくるのだからすごい。もうこの時点で映画に対して「嫌」という属性がつく。大杉漣演じる久留米のセクハラも最悪。絵画がいくら美しくても女と同じで売れなきゃ意味がないとか、発言が本当に酷い。彼が着ているチェックのジャケットがいかにもバブルというか、趣味の悪さが全開でゲラゲラ笑ってしまう。反面、諏訪太朗演じる吉岡の良さが輝く。諏訪太朗、今もいろんなドラマのゲストで見かけるけれど、かなり痩せているなあと驚いた。こんなに諏訪太朗が見た目も精神性もかっこいい映画は初めてかもしれない。
しかし何より、松重豊演じる富士丸である。秋子に執着して写真を警備室に飾っているのもかなりキツいが、彼女の落としたイヤリングをずっと着けているのはもう素晴らしすぎる。この熱烈っぷり。それでも、単なるストーカーに収まらないのがこの映画の凄い所である。彼は単に秋子が好きなストーカーなどという範疇に留まらず、世界に対し独自の視点を持った上で次々と人を殺すサイコパスなのだ。冒頭、タクシーの中のラジオで彼が兄弟子とその愛人を殺害したというニュースが流れる。この時点で既に2人、しかし精神鑑定によって無罪となった彼は映画の中で次々と人を殺していく。まずは先輩警備員を1人。直接的な殺害描写はないが、死体をロッカーに格納していた。ロッカーから流れる血が、いきなり映画に狂気を流し込んでくる。その後、資料室に閉じ込められた秋子からの電話を受けて、なぜか裏口を破壊する勢いで叩き続けるという不気味な行動を見せてくれる。せめて喋ってくれ…。部屋に閉じ込められて助けを呼んだと思ったのにあんなことをされたら恐ろしすぎる。続いて、別の先輩警備員に唆されて久留米を殺害。警棒で叩いて行動不能にし、最後は感電させてからのビニール袋で窒息死。いやパターンどれかに絞れや…とつっこんでしまうくらいに久留米殺害に強い意志を燃やす。この時点ではまだ彼の人物像が信念を持った殺人鬼である可能性も考えられた。自分をいびってくる先輩を殺し、先輩を見下す社員にも制裁を下す。兄弟子との間にもきっと彼にとって譲れない何かがあったのだろうと想像できるくらいに、まだ彼なりの正義に則っているのではないかと錯覚できるのだ。しかし、そんな正義は存在しなかったのである。
その後、電気工事士の女性が殺され、それに驚いた先輩警備員を壁に打ち付けまくり警棒で殴って殺害。「あんた、俺を理解したと言ったな?」などの台詞から、富士丸は自分のことを理解できる人間などいないと思っていることが発覚。挙句にはビルを閉鎖して12課の残った人間を皆殺しにしようとする。ここまで、具体的な動機は不明。出くわした野々村をフライパンで殴打し、顔に熱湯を掛けて殺害。外部に連絡を取ろうと勇敢に一人行動に出た吉岡も壁に打ち付けられる。一人になった高田もロッカーに閉じ込められたままロッカーごと潰されて殺されてしまう。残る秋子と兵藤は必死に戦い、兵藤が刃物を首に突き立てたことで何とか富士丸の撃退に成功する。
秋子との会話の中で「俺の体にはあんた達とは違う時間が流れている」「絶望的な時間だ」と富士丸が言っていることから、彼は信念を持っているのではなく他人との違いに悩んでいたということが分かる。おそらく彼は「理解した」と言われるのが最も嫌いなのだろう。自分のことなど誰にも分かるはずがないのに、その場凌ぎで同調や共感の言葉を吐く人間を毛嫌いしているのだ。言ってしまえば殺人鬼の阿呆な理屈なわけだが、別に難しい言葉を使うでもなく殺しを楽しむでもない独特なキャラクターには、やはり強い黒沢清イズムを感じる。絵画を取引する部署が舞台ということもあってか、殺人シーンに印象的に食い込んでくる『我が子を食らうサトゥルヌス』も非常に意味深。サトゥルヌスが我が子を食らうのは自分の子ども達に殺されるのではないかと恐怖を感じたためであり、そのことと紐付けると富士丸の殺しにも「他人に侵食される恐怖」が動機としてあったのではないかと考えられる。彼は他人を恐れ、殺されるかもしれないという恐怖に怯え、それゆえに先手を打って殺していたのではないだろうか。そう考えると、力士だったというのも納得がいく。彼は他人に安易に殺されないように強くなろうとしていたのかもしれない。だが、「世界に俺のようなことがいる人間が信じられないわけだな」という言葉。これは自分のような「人を平気で殺せる人間」のこととも取れる。彼はサイコパスなりにそのことに葛藤していた…のかもしれない。そして去り際の「俺のことを忘れるな」。富士丸は殺すことによってアイデンティティを確立しようとしていたのだろうか。決して許されることではないし、言葉が少ないために解釈の幅は広がるばかりなのだけれど、妙な哀愁が漂っていて彼の背中がとても切なく見えてくるから不思議だ。首を吊っての自殺(おそらく致命傷を負っているはずなのにわざわざ自殺することにも意味を感じてしまう)も、どこか寂しく思える。この映画で分かっているだけでも8人も殺しているというのに…。
殺人鬼にも殺人鬼なりの理屈があるというか、共有できない世界観ではあるが彼なりに独自の解釈に基づいて生きているという「ズレ」。このズレを利用した恐怖描写が黒沢清には本当に多いと感じているのだけれど、初期作品のこの映画でも既にその兆しが表れている。スプラッター映画に慣れてしまうと令和の今そこまで驚くような描写はないのだが、ホラー映画界を牽引していく黒沢清という男の黎明期として観るとかなり興味深い。サイコスリラー映画だが、殺人鬼の心情にもどこか思いを馳せてしまうような作りになっているのも黒沢清監督らしさ全開である。