2007年に発売された加門七海の原作が19年の時を経て実写映
まずもってして、本作は恐怖の対象が祝山(
小説からの翻案という意味では、昨年公開された白石晃士監督の『近畿地方のある場所について』は素晴らしかった。原作は様々な怪異を追ううちにそれらが近畿地方のある場所に繋がっていると気付くライターの手記をメインとしながら、掲示板のスレッドや個人ブログなどなど、文章の形式を多彩にすることでリアリティを生んでいる。もちろん映像では個人ブログや掲示板をただ描写しても味気ないのだが、白石監督はそれをリアルタイムでコメントが画面上を流れていくニコニコ動画システムや、個人の動画チャンネル、平成感たっぷりの某有名バラエティ番組、アニメーション、個人撮影の映像などなど、映像表現を多彩にすることで見事な原作の”映像化”を果たした。オチには賛否両論あるようだが、小説を映像に変換するという意味ではかなりいい線であったと言えるだろう。
『祝山』も『近畿地方のある場所について』と同じく土地にまつわる物語なのだが、後者のような映像化にあたっての翻案は一切されていない。舞台がスマホのある現代に変わっているくらいである。一応山岳ライターの吉村なるオリジナル人物を登場させ、主人公の鹿角の独白や一人での調査部分をうまくセリフ等に落とし込んではいるものの、そのレベルに留まってしまっており、非常に残念。また、このオリジナルキャラクターである吉村なる人物に関しても、怪異のルールと別でなぜか死ぬことになり、まったく理解ができなかった。
映画でも触れられていたが、原作の祝山の怪異は「祝山に足を踏み入れ、そこから何かを持って帰ってしまうとアウト」という明確なルールが存在している。原作では肝試し組が木材を持ってきてしまっていたために祟られ、その事実を突き止めた鹿角が生き残っているメンバーと共に再び祝山へ赴き、持ってきてしまったものを山に返すというシーンがある。これは映画にもあったが、木くずまで全て拾ってというのはさすがに無理があるように思う。あの細かさで持ち帰り判定をされれば、絶対に取りこぼしは出るだろうし、木くずにする必要は一切なかった。序盤で小野寺(草川拓弥)がストーカー的に鹿角の前に現れ、明らかに怪しい木彫りの置物を自宅前に置いていったところで原作読者の私は「あ、これを山に返す話なのだな」とピンと来たのだが、普通にそれと関係なく用途不明な木を持って帰ってきてしかも木くずにしている意味が分からない。というか意味深に登場した置物も禍々しさを演出する意味合いしかなく、一体どのような役割を果たしていたものなのかが分からないままである。小野寺が拾ってきた木材を勝手に加工して置物にしたのだろうか。仮にそうだとしても、そんなことをする理由は分からない。
話を戻し、オリジナルキャラクターの吉村について。彼は妻と息子を亡くしているというバックボーンがあり、中盤鹿角が訊いてもいないのに勝手に家族のことを話し始め、最終的には「この世には踏み入れちゃならない場所があるんだよ、2人はそこに行ってしまったんだ…」と家族の死を怪異によるものだと解釈する。ここまでは分かる。その後、吉村は自宅で自殺するのだが、彼はどうして死んでしまったのか。終盤の気の触れ方からして何かしらの怪異によって殺されたと考えるのが自然だが、彼は祝山に行ってはいない。家族が亡くなった場所に行ったかどうかも分からない。鹿角の怪異が感染したというようなこともあるか分からない。祝山から何かを持ち帰ると祟られるというルールから外れ、祝山とはおそらく関係のない理由で勝手に死ぬのである。確かに死に方は不自然なのだが、作中の怪異のルールとは別のところで勝手に死ぬため、作品の質を落とす要因になってしまっている。祝山以外にも禁足地があるという考え方はまだ分かるのだが、訪れたら死ぬ場所の存在は正直祝山のあれこれとあんまり関係がないので、映画に必要ない要素なのである。明らかに趣旨が異なっているため原作からの追加要素であることが丸出しで、統一感もない。彼はまったく不要だったと思う。むしろ原作に登場していた鹿角の友人の女性のほうを素直に出してくれればよかったのに…。
矢口が忘れ物を取りに鹿角と別れ、そのまま戻らなくなったというオチは原作通り(原作ではそこに若尾達もいたが)。しかし、最後に若尾が電話で鹿角に助けを求め、それを聞いて笑みを浮かべるという不穏なラストは映画オリジナル。自分としてはこれは要らなかったかなと。怪異から逃れられたと思わせて実は既に主人公が取り込まれていたエンドはJホラーではよくあるオチだが、私はあまり好きではないのでつい批判的になってしまう。理路整然としたゴールであるならばともかく、なぜ鹿角がああなってしまったのかはこちらの考察任せなところに腹が立っている。そもそも映画自体が祝山と関係ない吉村の話をやったりするような統一感のなさなのに、最後にちょっとホラー味だけ足してみましたみたいな終わり方はどうなのだろう。原作は作者の加門七海の実体験に基づく…という触れ込みもあり、主人公の鹿角が怪異に魅入られるエンドはあり得ない(途中で怪異に取り込まれかけ、負の感情を露わにするシーンはあるが)。それだけに、吉村同様、余計な要素を足したなあ…と思ってしまった。
同じく映画オリジナルの鹿角と矢口の学生時代の話も必要かどうかよく分からず。2人が別に仲良くなかったということは分かるし、鹿角がいじめられっ子を助けるような正義感に溢れた人物ではなく、むしろ自分に話しかけてきたずぶ濡れの矢口を遠ざけるような人間であったということが語られるのも、新鮮ではあった。そもそも肝試しの件も新作の取材を兼ねてなので、鹿角にはそもそも人を救いたい助けたいという気持ちが備わっていない。原作では若尾に頼まれどうにか彼女を救おうとするような描写もあるのだが、映画は鹿角を善人として描かない点で一貫している。だが、それが何なのかと言われるとよく分からない。彼女が善人でないことが祝山の怪異や物語の要素とどう繋がるのかが自分には見出せなかった。
細かいところだが、田崎がタザキと呼ばれているシーンとタサキと呼ばれているシーンが両方あった気がする。これは勘違いかもしれないのでいつかサブスクに来た時に確かめるようにしたい。また唯一良かった点は、橋本愛が位牌をウエハースのようにバリボリと貪り食うシーン。正直このシーンが来るまでは本当に駄作だと考えていたのだが、唯一オリジナリティを感じるシーンだったので気持ち少し加点した。
原作は実話怪談風であり、おちゃらけていないのにスラスラと読みやすく、しっかりと恐怖を醸し出してくれる良作であった。それだけに、何の個性もない実写映画になってしまっているのが非常に惜しい。予告の段階で期待はしていなかったが、まさか不安視していた通りのものがほぼそのまま出てくるとは…。何なら妙な追加要素でさらに下回っていた気もする。ちなみに直前で同じく武田真悟監督の『ファンタズム』も鑑賞したのだが、これもかなり酷かったので武田監督の作品は自分には合わないのかもしれない。
原作は3作目まで続いているので、気になった方は是非(自分も祝山しか読めていないのでどんな話かは分からず)。


