2024年は黒沢清監督の作品が2作も公開されるのだが、そのうちの1作、リメイク版『蛇の道』の公開はすでに2週間後に迫っている。5本の指に入るほど好きな監督ではあるが、作品を網羅できてはいないし内容を忘れているものも多々ある。ということでひとまず初期作『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を鑑賞した。映像サブスクが発展すらしていない10年前は、今のようにリモコンをポチポチするだけで40年前の映画が観られるなんて考えもしなかった。10年前は学生だった自分も、黒沢清監督作品をはじめ、観たい映画はとにかくTSUTAYAやBOOKOFFを漁るしかないという状況だったことをよく覚えているので、『ドレミファ娘』のようなヘンテコな作品がAmazon Primeに名を連ねてるのは感慨深い。こんなに簡単に生まれる前の映画に触れることができるとは。
昔から黒沢清監督のフィルモグラフィを見て「変なタイトルだなあ」とは思っていた本作。キャッチーではあるが内容はベールに包まれているような印象だった。いざ観てみるとこれがまた…。映画自体もかなり変。黒沢清らしい難解な映画なのかとも考えたのだけど、いろいろ調べた末にもっとポップな映画なのだなという感想に至った。深く考えるというよりは、映像を楽しむような。
40年前の映画ということもあり明確なソースには辿り着けなかったものの、元々この映画は日活ロマンポルノとして制作されていたらしい。しかし完成後に納品を受け入れてもらえず、再撮影して公開に踏み切ったのだという。制作時のタイトルは『女子大生 恥ずかしゼミナール』。これを知るとかなり作品への印象が違って見えてくるような気がする。ポルノ映画に中身がないなんて思ってはいないが、少なくともドラマ性を重視している作品ではないのだろう。というか、この制作時のタイトルだったら下劣さも含めてすごく分かりやすいのではないだろうか。これを「血は騒ぐ」だなんてかっこつけた表現にしてしまうなんて…。
映画の内容は、高校時代の愛する人を追い求めて上京してきた少女が主人公。無事に愛する吉岡さんと出会うが、大学で出会った彼は見違えるように軽薄な人間になっていた。主人公と吉岡さんの過去が語られないため、吉岡さんが元々こういう人物だったのか、それとも大学に入って変わってしまったのかは分からない。自分の愛する人の変わり果てた姿に絶望する彼女に近づくのが、吉岡さんのゼミの先生でもある心理学教授の平山。この男は若い女性を辱めてやりたいという下劣極まりない欲望を持っており、研究内容も「恥じらい」という変わった男だった。そして彼もまた、恥じらいのない学生達の乱痴気騒ぎに絶望し、純朴な少女である主人公にたどり着く。そして失意の彼女を誘い、研究室で裸にさせて謎の実験を始めるのだった。
と、あらすじを書いてみたがかなり自分の主観が入っているような気がしてならない。元々ポルノ映画だということを考えると、愛する人への幻想を打ち砕かれた少女を、悪趣味な親父が拐かす物語だと言って差し支えないとは思うが、ところどころに挿入される、本編とはあまり関係のない不気味な映像の数々が、映画の輪郭を曖昧なものにしていく。バケツを叩きながら何かを訴える学生団体の活動や、画質の荒い場面、そしてラストの謎の銃撃戦。いきなり理解不能な描写を叩きつけて芸術性を高めてくるやり口は、以降の黒沢清作品にも受け継がれている。なんなら黒沢清作品には日本社会にも関わらず唐突に銃が出てくることが多いのだけれど、この作品でも本当に唐突に銃が出てくるので笑ってしまった。正直映画の描写だけだと本当に理解ができず説明も不足しているため、これらのシーンがどういう意味を持つのかは全く分からない。しかしその不気味さ、単なるエロ映画で終わらない不自然さが妙な魅力を放っているのも確かなのである。
何より、主演の洞口依子さんの佇まいや透き通るような声もあり、とにかく画面に釘付けになってしまう。結局平山の毒牙にかかってしまうのが惜しいくらいに素晴らしい存在感がある。そして彼女の凄まじい存在感をしっかりと見せてくれる演出にも驚く。冒頭、大学の構内を歩く秋子を横から追っていく長回し。この時点でどこか不穏さが漂っており、そういった長回しの多用や不気味かつコミカルな演出の数々が、起伏のない映画を盛り上げていく。伊丹十三演じる平山も喋り方からして独特で、その違和感が絶妙な雰囲気を醸し出している。コメディともシリアスとも言い切れない作風からは、今後ホラー監督として名を馳せていく黒沢清の片鱗が垣間見える。意味不明な部分でさえ印象的に映るミステリアスな映画だった。