映画『アギト -超能力戦争-』評価・ネタバレ感想 詰め込まれた”あの頃”に魂が目覚める

仮面ライダー生誕55周年記念作『アギトー超能力戦争ー』オリジナル・サウ ンドトラック - 音楽:佐橋俊彦

 

仮面ライダーアギト25周年記念作品であり、仮面ライダー生誕55周年記念作品であり、THE_KAMENRIDER_CHRONICLEの記念すべき第1作である本作、『アギト -超能力戦争-』。 

アギト放送当時幼稚園児で、世代ど真ん中だった自分には大きな不安もあった。本当に、大丈夫なのかと。その不安の一番の理由は2024年の『仮面ライダー555 20th パラダイス・リゲインド』をまったく受け入れられなかったこと。『仮面ライダー555』自体は大好きで、『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』にも感動した私は、田﨑監督、井上大先生、白倉Pのトリオが再び集結し新作を作るというのだから絶対にハマると確信し、先行上映初日に駆けつけたのだが、結果は散々なものだった。原作であるテレビシリーズへの冒涜にも思えたが、このトリオは常に革新的な番組作りを意識していて、アギト等の2000年代平成ライダーシリーズはその過渡期にあったのだろうと無理矢理自分を納得させようとした。彼等は前に進み続け、新しい作品を作り続けている。『パラリゲ』は明らかに『ドンブラ』の流れを汲んだものであったし、彼等は懐古よりも革新を選んだのだ。平成ライダーの制作陣は当時から平成ライダーを作ろうとしていたのではない。時代に合わせてより多くの視聴者を獲得できる番組作りに奔走しており、その結果として私の人生に多大な影響を及ぼした作品群が出来ていたのだ。そう、クウガ~555に魅了され続け、昨今のライダーに物足りなさを覚え続けている私だけが、取り残されていたのだ。

 

2026年1月下旬、仮面ライダーのX公式アカウントがいきなり新作ライダー映画のロゴを11作挙げ、どれが制作されるか予想して投票しようというなかなか狂ったポストをした。事前に石田監督によるお漏らしを知っていたファンの多くは「はいはい、カブトでしょ。知ってますよ」と無邪気にカブトに票を入れつつ、ロゴだけが制作されたであろう他の作品にも思いを馳せていたはずだ。しかし数日後に情報解禁されたのは、まさかの仮面ライダーアギト新作。前触れがまったくなかった上に余計なミスリードを喰らっていたせいで、私はとにかく衝撃を受けた。555を”奪われた”私にとって、『仮面ライダーアギト』は思い出の中に残された貴重な作品の一つ。座組を聞き、アギトまでもが自分の手から離れた作品になってしまうのではないかと不安になり、テレビシリーズを久々に観返してその面白さに悶絶しながらも、新作公開でこの大切な作品がひっくり返されてしまうのではないかと戦々恐々としていた。数々の予告映像も解禁され、G7装着の拙いCGや劇中で死んだ木野薫の再登場、赤いドレスの伊達さんや電撃卓球女を観て、どんどん下がっていくハードル。どうせ木野さんは草加と同じくアンドロイドだろう、超能力者達はジオウのキバ編に登場したマンホール釈由美子と同様、97分の尺で個性を出すためにインスタントかつインパクト絶大な仕上がりになっているのだろう。555の前例もあるため、新作の報せに無邪気に喜ぶこともできず、繰り出される予告にもそこまでの良さを見出せなかった。それでいて、テレビシリーズを観ての再発見や、真アギト展初日に賀集利樹・牧山雄亮(旧姓は友井)とハイタッチができたりと、アギトへの思い入れはますます強まっていく。上がってしまうアギトへの感情と、それが覆されそうな不安に押し潰されながら数日を過ごし、遂に迎えた公開日当日。同日公開の『SAKAMOTO DAYS』を朝イチに鑑賞し、その5分後には『アギト -超能力戦争-』の席に座っていた。ほぼ満席の場内。子どもや家族連れは一人もいない。私のような世代ど真ん中の人間や50代ほどの方々ばかりで、GWの真っ最中に公開されたアギトの新作を初日初回で観ようという人間特有のオーラを放っていた。

 

結果から言うと、滅茶苦茶面白かった。最高。傑作。ハードルを大いに下げていたのはあるだろうし、直前に観た『SAKAMOTO DAYS』があまりに酷かったのでそのブーストもかかったかもしれない。ただ、外的要因を抜きにしても単純に面白かった。面白すぎてこれはもう大絶賛されているだろうとXを開いたら全然そんなことはなく、改めて自分の認識の甘さを思い知る。むしろ怒っている人のほうが多いくらいである。Filmarksを開いたら評価は3.6。そうですかと色々な方のコメントを読んだのだが、否定派の意見も頷けるものばかりで非常に困った。実際私も最高/傑作などと言っているが、瑕疵が0だと思ったわけではない。明らかに駄目なところはある。テレビシリーズの延長としてどうかとは思う。だが、それらのマイナスを拾う苦しさよりも、作品の勢いが勝った。『ドンブラ』も『パラリゲ』もあったのだから白井田トリオの作品が凄く久々というわけでもないのに、「このトリオで作ってくれてありがとう」という気持ちで満たされたのだ。本当に素晴らしい映画だった。

 

ここまでで2000字を越えてしまったが、まだ前座である。何を面白いと感じたのか、もう少し具体的に記述して私の初見感想としたい。

 

 

 

 

・作品の雰囲気

自分がクウガ~555の何に一番惹かれたのかと最近色々考えていて、辿り着いた結論が「ホラー味」や「恐怖」だった。人が得体の知れない怪人に襲われるプロセスや演出、怪人自体の薄気味悪さ。また、犠牲者の死をきちんと描くことで相対的に「変身できなくなったら終わり」という絶望感も演出されている。『555』で敵にベルトを奪われた時には素直に「終わった…」と思えたし、グロンギやアンノウンの人間とは違った文化や思想を持つという設定は非常に恐ろしかった。『龍騎』のミラーワールドの設定にも自分の居る世界とは違う世界で何かが起こっているという恐怖があった。老害にはなりたくないが、やはり近年のライダーはコンプライアンスの観点もあるのだろうが人の死を描くことが難しくなっており、レギュラーキャラクターや重要な人物を華々しく散らせることはあれど、通常回での怪人の犠牲者に死が訪れることはほとんどない。昨年の『ガヴ』ではヒトプレスから闇菓子にされること即ち死という設定があったが、あれも直接的に命を奪う描写はされていなかった。しかし『アギト』のテレビシリーズでは平気で人が死ぬ。ガキまでアンノウンの標的にされる。その上各アンノウンの殺害方法にはモチーフとなった動物を意識したような個性があり、その悍ましさは前作『クウガ』に登場した殺戮集団グロンギと双璧を成していた。ただ殺しに来る怪物は恐ろしいが、『アギト』には殺され方にそれぞれ特徴が出ていて、それが余計に当時の私には恐怖だったのである。木に埋められるというだけで恐ろしいのに、怪人達のマスクもとてもリアルで、その上殺人を行う前に謎のハンドサインを繰り出す。第1話で出かけたサラリーマンが襲われる一連のシーンが、私はずっとトラウマだった。そのせいで『アギト』は『クウガ』や『龍騎』よりも観た回数が少ない。「なんか怖い」という思いをずっと抱いていたのである。

 

新作で超能力者とのバトルが繰り広げられるなら「なんか怖い」はおそらく消えてしまっているのだろうなと覚悟していたのだが、アンノウンの持つ得体の知れない雰囲気がむしろ超能力者=ギル・アギト達にきちんと移植されていて、人々が次々と凄惨に死んでいく姿に激しく感動してしまった。ここで『PROJECT G4』の話を挟むが、あの映画の冒頭も本当に素晴らしい。アントロードの大群が研究所を襲うOPまでのシークエンスだけでかなりの見応えがある。真っ直ぐ歩かず各々がフラフラと動くアントロード達、複数の怪人が動く歩道に乗っている不気味な演出、ギョロギョロと動く目玉、アントロードを照らす黄色の照明、動く触覚。このどれもが本当に恐ろしく、結局のところ「人を襲う」存在でしかない怪人に、これほどまでの個性を付けて「人を襲う」を演出できるのは神業としか言いようがない。『パラリゲ』のラー油ではがっかりしたし、『仮面ライダーガッチャード』でもあまり良い演出を見られなかったのだが、私はやはり田﨑監督が平成ライダー初期に手掛けた作品群が大好きなのである。そして本作はそんな田﨑監督の(私にとっての)全盛期的な演出がどんどん出てくる。一番感動したのはルージュが人々を宙に巻き上げるシーンで、その上にいた女性2人が自撮りをしていたところに入り込む演出。人の身体が勝手に宙に浮いて爆散する。それは確かに恐ろしいことなのだが、その見せ方として「自撮りに浮いた人間が映り込む」という、被害者以外からのアングルがあることに感動してしまった。これを観ただけで「あの頃の田﨑監督が帰ってきた!」と思えた。いや、正直に言うと映画が始まってすぐの、小沢澄子登場シーンの螺旋階段の光の入り方だけで一気に世界観に引き込まれていた。予告でもさんざん観たはずなのだが、スクリーンでテレビシリーズ当時のような「大人っぽい映像」が見られるのではないかと、あの差し込んだ光だけで期待を煽ってくれたのである。『パラリゲ』での真理の心理描写は本当に酷かったと思っているのだが、VシネクストではなくTHE_KAMENRIDER_CHRONICLEの名を冠するだけでこんなに映像の質感が変わるとは。これが新展開の1作目であるということに希望を持てた瞬間である。

 

その後物語は拡大し、個性的な超能力者が次々と登場する。ある者は生きたネズミを丸呑みし、ある者は喪服を着て卓球ラケットで電撃ピンポン玉を放ち、ある者は歌詞が書かれた画用紙を開いて童謡を歌い、元伊達明であり元純烈の高身長イケメンは赤いドレスを身に纏ってオネエ口調で話す。予告である程度分かってはいたが、全てが馬鹿げている。馬鹿げているのだが、映像のマジックであの世界観に息づいている人間として、私の目には映った。現実にいるわけがないのだが、映像のシリアスさで”浮いて”いないのだ。街中で見かければ笑ってしまうかもしれないのに、あの映像の中ではきちんと恐怖として描かれている。何より童謡を聴いた者を半分焼死半分凍死させる鬼頭の、画用紙を開いて歌い出すシークエンスなんかは正にホラーそのもの。この”タメ”の利いた演出に自分はノックアウトされてしまったし、その後の血が飛び散り心臓が手のひらの上に置かれる恐ろしさにも、当時のシリアス味を感じていた。本作に登場する超能力者はどちらかというとアンノウンよりもグロンギに近いかもしれない。それぞれが独自の殺し方を持ち、それが洗練されている恐ろしさ。まさかアギトの新作からクウガらしさが飛び出すとは。そしてその「殺しの個性」は見事に私のツボだったのである。

 

傍から見ると明らかにおかしいのだが、劇中ではキャラクターがそれらに真剣に取り組むことの面白さは正に白井田トリオが私に教えてくれたもの。この作品は見た目の個性も設定的にもとにかくリアリティラインが低いのだが、決してリアリティラインを動かさないということに好感が持てた。「ここは変だけど、そういうことに目を瞑って見る作品なのかな」と思っていたら「ここは変だったんだ!」とキャラクターが後で気付く、みたいなリアリティラインがうねうね動く作品が苦手なので、確かにトンチキではあるもののそのトンチキさに対して冷静でいるようなこの映画のことは大好きである。アギト因子やアンチアギト因子なる馬鹿馬鹿しい物が出てきたとしても。というか、そういう分かりやすい馬鹿馬鹿しさを劇中で茶化さず真面目に演出している作品が私は好きなのだ。SEでの「ここ笑うとこですよ」の強調ギャグシーンや変顔やグダグダのやり取りに全然笑えない人間なので、やはり井上敏樹の洒落の利いたセリフがたくさん聞けたのが非常にうれしい。

 

 

 

 

・井上敏樹の台詞

井上敏樹の信者なので、やはりセリフ回しにも素直に感動してしまった。これは感動したから映画が面白かったというより、映画それ自体が面白かったのでセリフの数々にも感動できたという側面が大きい。正直、豆腐や北條巻きのようなファンへの目配せ的ギャグは私は全然好きではないのでどうでもいい。それ以外の部分である。

 

まずはやはり、氷川をいじめていた受刑者の「大山さんはなぁ!コロッケがお好きなんだ!コロッケを献上しろ!」。氷川をあんなにいじめていたくせに強い者には積極的に屈する潔さもそうなのだが、これは「お好き」の部分が素晴らしい。徹底して舎弟をやっている感じ。おそらく捕まる前もこういう舎弟じみた生活をしていたんだろうというのが言葉に染みついている。「お好き」と「お」をつける辺りに若干教養が見えるのもいい。思わずうっとりしてしまうような名言(それこそ「死を背負ったら不味くなるレベル」)は本作ではなかったが、こういうクスッと笑えるセリフがとにかく多かった。

 

同じく刑務所のシーンで、「氷川さんは豆腐がお好きなんだ!献上しろ!」の天丼も最高なのだが、それに対してなぜか氷川が歌を歌ってほしいとお願いし、律儀にアヴェ・マリアを受刑者が歌い、氷川の後ろで歌を聴いていた翔一が「良い刑務所だ」とポロっと言うところで危うく吹き出しそうになった。「良い刑務所」なんてないだろ。いや衛生面などであるかもしれないが、「良い刑務所」というフレーズがそもそも面白すぎる。これだけで翔一の人間性や人の好さが出ていると言う気はないのだが、この些細なフレーズにふと可笑しさが付随する鉄砲的な井上敏樹のセリフ回しが最高。私は『ドンブラ』でドンオニタイジンが初登場した時の「文字通り俺の手足となったな」というタロウの台詞が大好きなので、こういうのに弱い。

 

ゆうちゃみ演じるるり子の「死刑!」と言いながら駐車違反切符を貼っていく姿も素晴らしかった。やはり井上敏樹はキャラ立ての天才。テレビシリーズに登場していなかった新規キャラなのに覚えづらいということが一切なく、本作でも新鮮味に溢れた人間味豊かなキャラクターを生んでくれている。杵島と香川が何故かセリフの後に必ずお互いを君付けで呼んでいるのも面白かった。ただ逆に小沢さんの「23歳よ!」はちょっと令和の今ではギャグのノリとしては古いかなと思ってしまったのと、色仕掛けのシーンはどう考えても不要。あそこだけ妙な緊張感が劇場に漂ってしまったので、そこは素直に反省してほしい。

 

 

 

 

・反省してほしいところ

ここまでかなり褒めてしまったが、反省してほしい点は色仕掛けだけではない。正直、かなり苦しい部分もある。私は演出の方向性がテレビシリーズの延長であったこと、つまりは過剰なギャグに走らず、あくまでシリアスな演出を心掛け凄惨なシーンではきちんと恐怖を与えてくれる点については評価したいが、正直「これってどうなの?」と思う箇所はかなり多い。

 

まずはギル・アギトを倒すことの是非。彼等が人間であるということは周知の事実なのだが、Gユニットは平気でギル・アギトを撃破していく。一応氷川誠が戦いを躊躇うシーンが『PROJECT G4』のG3-XとG4の戦いを挟み込んで存在しているが、それも「人を殺したくない」という氷川の葛藤というよりは、「氷川誠には対人との戦いにトラウマがある」という程度の演出で、その直後に氷川はギル・アギトを撃破してしまう。映画の後半で明かされたように、ギル・アギトは末期患者が木野の手によってアギト因子を撃ちこまれ完解し、特殊な力に目覚めた姿である。『555』のオルフェノクに近い存在と言え、人間の延長線上にある生物なのである。確かに多くの人を殺害する脅威ではあるのだが、彼等が人間であることにほとんど触れずにバッタバッタと倒していくのは倫理的にどうなのだろうか。ヒーローが怪人を倒すというカタルシスに目を向け、怪人の撃破も殺人であるという事実から目を背けているのは、仮面ライダーの映画として明確に苦しいところ。まして一般層を取り込もうと宣伝に力を入れている作品で、このような引っ掛かりが生まれてしまっているのは相当厳しい。

 

次に葦原涼と木野薫の扱い。状況的にテレビシリーズで葦原涼を演じていた牧山さんの登場は厳しいと感じていながらも、真アギト展の事前番組への登場や予告編に登場する半壊したギルスの頭部から、もしかして出演するのかという淡い期待は抱いていた。それは実際打ち砕かれてしまったわけだが、そこは個人的には気にしていない。ただ、涼が既に死んでいたというのは凄い判断だなと。涼を出さないのなら言及しなくともよかったはずなのだが、敢えてギルスの死体を登場させ、それを映画内の重要なファクターとしているところに制作陣の強い思いを感じる。アギトは3人のライダーの物語なのだ、と。

しかし問題は木野薫である。第46話でコーヒーを頼んだまま死んだはずの彼が一体どうして新作に登場しているのか。情報解禁時から大きな謎であったが、その答えは「地獄から蘇った」であった。生きていたのか、何かしらの理由で復活したのか、それすらも明確にされず、ただ「いた」。いただけならともかく、何とその勢いとかつて医者だったという設定を利用してこの映画の黒幕になっているのだから恐ろしい。井上敏樹は一度死んだ人物すらも理由をぼかして再登場させてしまう。本来ならキャラクターへの愛情がないのかと問い質したくなるが、この木野薫を作ったのもまた、井上敏樹なのだ。この理由をぼかした再登場について、私は明確に映画の瑕疵というほどは違和感を持っていない。ただ、やはり明らかにするべきではないかとは思った。『パラリゲ』は『555』のテレビシリーズを飛躍させた作品だったために、死者復活の謎が「アンドロイドでした」が成り立ったが、このアギト新作のリアリティラインでは「何か生きていた木野薫」はかなり浮いてしまっている。整合性が欲しいとまでは言わないが、何らかの理屈はほしかったところ。

テレビシリーズで改心したはずの木野薫が今回「人類に犠牲は厭わず強制的に進化を促すラスボス」として描かれたのは驚愕だったが、昨今の井上敏樹作品では善人と悪人が紙一重という描かれ方をしている。つまり善人も道を踏み外すことがあるし、悪人も善行を成すことがあるという描写が定着しているので、個人的には「なるほどまたこのパターンね」という感覚。『ドンブラザーズVSゼンカイジャー』のジロウが正にこのパターンで、敏樹は書きたいもののためなら仮に自分が作ったキャラクターだとしてもキャラ崩壊を起こすことが多々あり、私は割とすんなりと受け入れてしまった。むしろ「これが人間の最終到達点」と言った後にバカでかいCGクリーチャー(シャイニング・ギル・アギト)に変身したことのほうが自分は問題だと思っている。あれがそもそも人間の到達点なわけがなくてめちゃくちゃ面白くなってしまったのだが、その後にアギトの世界観にCGクリーチャーかぁ…というガッカリが勝った。ここは等身大の怪人で良かったし、変身後の木野さんがほとんど意思を持たない怪物になってしまったのは残念。捨て台詞として「私は何度でも蘇る」と言っていたのも、そもそも蘇りのロジックが不明なので何だか本当にこれからこの世界は人間VS木野薫の戦いに突入していってしまいそうで、気が気でなかった。あとあのシーンでシャイニング・ギル・アギトの身体にうっすら木野の顔が映る演出も酷い。悪い時の田﨑監督が出てしまっていた。

 

一番「?」となったのは、ラストバトルの氷川誠である。小沢さんに止められているにも関わらず、ベルトのボタンを何度も押し、命を懸けて戦いに挑む氷川誠。これは正直、かなり過去作への冒涜に思えた。いや作り手が同じなので冒涜も何もないのだが、私の知る氷川誠とは乖離している。なぜなら『PROJECT G4』で彼は、生きることを肯定したい、死を背負うことを否定する人物として描かれていたのだから。G4装着者の水城がいつか死ぬ運命を受け入れて戦っていることを知り、氷川は思い悩む。氷川は水城の考え方に共鳴しつつも違和感を覚え、翔一に相談する。そこで「生きるってことは美味しいってことじゃないですか。死を背負ったりしたら不味くなります」と言われるも、彼は翔一のように生きることを全て肯定することができず、逆に水城のように死を背負いきる覚悟も持てなかった。最終的に彼が出した結論は、「中途半端なままでも生きることを素晴らしいと思いたい」。その不器用さはアギトになれない彼の中途半端さとも絡み合い、テレビシリーズとは実質パラレルワールドの世界観ながら、氷川誠を代表するセリフの1つでもある。だが、『超能力戦争』で氷川誠が選んだのは水城が受け入れた「死を背負って戦う運命」に酷似している。自分の身体を危険に晒して敵を倒すという精神性は彼が以前真っ向から拒絶していたものだったはずなのに、新作の氷川は心変わりすらなくそれを選んでしまっていた。確かに、無理をして正義のために戦う姿は美しいし感動を誘うが、氷川誠にはそれは似合わない。何より、この映画においてG7がそこまでしないとシャイニング・ギル・アギトを倒せないのか、が不明瞭な状況だったことがもったいない。氷川がそこまでしないと倒せない相手だと悟って自ら命を犠牲にする決断を取ったのならば、「あぁ、あの時否定した考え方に氷川自身が辿り着いてしまったんだな…」という悲哀も生まれるのだが、翔一がライダーキックを出せずるり子が変身したトリニティ・ギル・アギトと銃弾超能力者だけでは劣勢かなぁくらいのレベルで氷川がいきなりベルトのボタンを連打し続けるのには違和感があった。せめてもっとピンチを演出してからでないと、あの決意は無駄になってしまう。小沢さんの警告だけが虚しく響くシーンであり、しかもこの先で氷川が初めてライダーキックを決めるという重要な演出があるのだから、もう少し内容を詰めてほしかったところ。命を賭すという安っぽいエモーショナルに頼ってほしくなかった。

 

そして、全体的に合成やCGが酷い。シャイニング・ギル・アギトもなかなかキツかったが、そもそも冒頭のG3とG3-Xの出動シーンが合成丸出しでげんなりしてしまった。ここだけ本当に2001年のレベルにまで映像の質感が戻っている。バイクシーンの撮影が厳しいことは百歩譲って理解するのだが、それならもう少し工夫をしてほしかった。アレを観た時には「この映画やっぱり駄目かも…」という不安がこみ上げてきたし、予告でも大々的に宣伝していたG7の初装着シーンもだいぶキツいものがあった。アイアンマン丸出しなのは構わないのだが、もう少し合成やCGにお金をかけてほしい。掛けられないのならうまくごまかしてほしい。チープさを堂々と出すような真似はしてほしくないのだ。また、これは本作に限ったことではないのだが田﨑監督が得意とする変身後のマスク下の顔を映す演出も、モロにアイアンマンのパクリで本当に観ていてキツいのでいいかげんやめてほしいところ。仮面ライダーバースやビルドの各ライダーでもこの演出がされていたが、誰もが分かるようなハリウッド作品の演出を躊躇いもなく、パロディですらなく大真面目に「熱い演出」として出されるのが個人的にかなり辛い。ただG7の2度目の装着シーン、引きのカットで、氷川が徐々に服を脱いでいくカットは素晴らしかった。これも先で書いた超能力者の細かな個性描写と一緒で、こういう小さくとも個性的な演出こそがやはり特撮の良さなのである。

とはいえ、せっかく一般的な知名度も高い要潤主演で、少なくとも予告では比較的硬派な雰囲気を醸し出し、「仮面ライダー」の名を廃した映画作品なのに、肝心のCGや合成がこれでは目も当てられない。物語に関しては「そういうものだから」とも言えるが、集客したライダーやアギトに興味ない人達がCGのチープさで没入できないというのは非常に勿体ない。ここはきちんと是正した方がいい気がしている。最初はかなり雰囲気もあって良かったのに、G3とG3-Xの合成を観た瞬間に「これアギト知らない人に無邪気に観てとは言いづらいな…」となってしまった。もちろん最後まで観たらそれ以上にアギト未履修の人にはハードルが高い作品だと思い知るのだが。

 

総じて、私はこの映画がかなり好きだった。それは「アギトっぽさ」があったからである。テレビシリーズに輪をかけて馬鹿馬鹿しい設定だが、それを大真面目にやっている。アギト因子とアンチアギト因子なんて一生笑っていられるのに、25年間愛していたキャラクターがそれを大真面目に取り合っているのだ。やっていることは子供騙しかもしれない。しかしシリアス調で変な設定の映画が公開されている、それがアギトの続編という建付けだけで私はもう満足してしまった。ただ、演出の味付けこそ凄惨さも目立ったものの、方向性としては昨今の周年記念作品のノリとそう変わっていないのかもしれない。『パラリゲ』に拒絶反応を起こした経験がある私には、『超能力戦争』に怒りを覚える人の気持ちも分かる。だが、「アギトっぽさ」に心を奪われてしまったのだ。

しかしそれはあくまで「アギトっぽさ」であり、「アギトらしさ」ではないと思う。冷静に考えれば、25周年の続編だから絶対観てと言えるほど強気に出られる作品ではない。異様で異常、続編における禁忌を好きなだけ犯している。最後の自首エンドも人によっては拍子抜けかもしれない。しかし私は『ドンブラザーズ』の「脈がない!死んでます!」で大泣きした人間なので、敏樹節の利いた「異様な大団円」も受け入れることができた。あの頃の氷川がいたかと言われると疑問であるし、あの頃の翔一に会えると言えるほど彼の出番はないし、あの頃の涼…涼は死んでいたし、あの頃の木野…木野はイカレてしまった。そう、この映画は優等生ではないかもしれない。だが、私が25年前、幼少期に『仮面ライダーアギト』という番組に抱いた恐れや興味、それらを映像から感じ取ることができたのである。テイストが明らかに異なっていた『パラリゲ』とは違い、『超能力戦争』には2001年らしさが宿っていた。手放しには喜べない部分もあるし、好きだからこそもっとアクションやCGに力を入れてほしかったという思いもある。だがそれでも、もう戻ることのできない2001年らしい”空気感”がこの映画には詰め込まれていて、それによって改めて魂を目覚めさせられたのだ。こんな作品をスクリーンで堪能できただけで大満足である。一生大切にします、『アギト -超能力戦争-』。 

 

 

 

 

ちなみに、懇意にさせていただいている虎賀れんとさんは本作をまったく受け入れられなかったそうで、ブログを拝読したところ「いや確かにそうなんですよね~」と頷かざるを得ないくらいたくさんの欠陥を挙げてくれていた。何ならこれを読んで自分の本作への思いにも少し冷静になれたので、一読の価値ありです。「目覚めないでほしかった。」のタイトルがストレートで良すぎる。

 

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